17世紀 |
ルワンダ王国建国 |
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1899年 |
ドイツ領東アフリカの一部となる。 |
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1899年11月23日 |
ベット・ヘック(Bethe-Hecq)協定により、ドイツとコンゴ自由国との間でキヴ湖付近の境界線が定まる。(但し、最終的な確定は1910 年) |
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1990年4月1日 |
ベルギー・ドイツ協定締結 |
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1908年 |
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1910年5月14日 |
ベルギー領コンゴ、英領ウガンダ、独領東アフリカの国境がブリュッセル会議で確定。これにより、ルワンダはブフンビラ(Bufumbira)をウガンダに、ブウィシャ(Bwishya)、ギシャリ(Gishari)、およびイジウィ島をコンゴに併合される。 |
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1914年9月23日 |
イジヴィ島のベルギーの軍事基地がドイツによって占領される。 |
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1914年10月11日 |
ベルギー軍が、シャンググのドイツ軍基地を攻撃する。 |
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1914年10月20日 |
ギセニィでベルギー、ドイツ両軍が衝突する。 |
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1916年4月~5月 |
ドイツ軍、ルワンダ・ウルンジより撤退する。代わってベルギー軍が占領する。また同時期、キガリがルワンダの首府となる。 |
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1917年 |
ベルギーによる行政の開始。 |
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1919年5月 |
オーツ・ミルナー(Orts-Milner)協定によって、正式にルワンダの統治権がベルギーに委譲される。 |
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1923年5月23日 |
ルワンダ国内の奴隷制度が廃止され、これによりツチなどにより所有されていた奴隷が解放される。 |
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1924年10月20日 |
国連が、正式にベルギーのルワンダ・ウルンジ委任統治を認める。 |
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1925年8月21日 |
ルワンダ・ウルンジ委任統治領は行政上ベルギー領コンゴと統合され、副総督府(Vice Government-General)を構成することとなる。但し、法的地位と財政、資産に関しては自律性を持つ。 |
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1937年1月22日 |
ベルギーが、植民地省内に植民地化局(Office of colonization)を設置する。また同年、国際連盟が、アフリカ人に比してヨーロッパ人の租税負担が低いことを指摘する。 |
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1949年4月25日 |
ベルギーと国連との間でルワンダ・ウルンジ信託協定に関わる条項が締結する。 |
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1952年7月14日 |
ベルギー、政治体制の部分的民主化に着手。四つの評議会を設立しその構成員を決める政令発布。評議会は、副首長領、首長領、県(district)、そして国家高等評議会の4 レベル。構成員は、副首長領評議会はサブチーフが準備したリストに名前が記載された貴族から選ばれ、その他の評議会はサブチーフやチーフが構成員となった。 |
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1957年6月 |
フツ社会運動(MSM: Mouvement social muhutu)結成。 |
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1959年4月16日 |
信託統治領の政治・社会問題を調査するワーキング・グループがベルギーで発足する。 |
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1959年8月15日 |
ルワンダ国民連合(Union National Rwandaise: UNAR)がルワンダで最初の政党となる。王党派、親ツチ、反ベルギーという性格。 |
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1959年9月13日 |
UNAR、キガリで最初の政治集会を開催。約2000 人参加する。 |
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1959年9月14日
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ルワンダ民主会議(Rassemblement Démocratique Ruandais: RADER)、キガリで結成。中央委員会議長に開明派チーフのブワナクウェリ(Prosper Bwanakweri)が就く。 |
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1959年10月9日 |
MSM を母体としてフツ解放運動党(パルメフツ)(Parti du Mouvement de l’EmancipationHutu: PARMEHUTU)が結成される。議長はカイバンダ(Grégoire Kayibanda)。ギタラマを中心に強力な支持を得る。 |
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1960年6~7月 |
ルワンダで最初の地方選挙が暴力のなかで行われる。パルメフツの圧倒的勝利。地方評議会の3125 議席中2390 議席。229 コミューンのうち210 コミューンでブルグメストル(首長ポスト)を獲得する。 |
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1960年12月20日 |
国連総会でルワンダの政治的不安定状況に鑑み、国会議員選挙を延期するよう勧告。パルメフツは猛反発する。 |
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1961年1月28日 |
新たに選ばれたブルグメストルと地方議員などがギタラマに集結。ムワミの退位と共和国の成立を宣言(ギタラマのクーデター) |
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1961年2月1日 |
ベルギー本国政府、1 月28 日にギタラマで宣言されたルワンダ政府に自治権を認可する。 |
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1961年10月26日 |
ギタラマ出身のフツであるカイバンダが共和国大統領に選出される。 |
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1962年7月1日 |
ルワンダ、ベルギーより独立する。 |
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1965年5月 |
カイバンダ、大統領に再選。選挙でパルメフツ大勝。実質上の一党制国家となる。 |
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1966年9月27日 |
ベルギーとの間で支援協定(技術援助、資金援助)締結。キガリ空港の無線設備、住宅建設など。 |
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1969年10月 |
総選挙。パルメフツ候補者に対立候補は立たず、カイバンダも対立候補なく三選。 |
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1973年7月5日 |
ギセニィ出身のハビャリマナ(Juvénal Habyarimana)将軍が無血クーデターにより政権掌握。パルメフツの活動を停止させ、あらゆる政治活動を禁止。カイバンダは逮捕され死刑宣告受ける |
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1973年8月1日 |
ハビャリマナ、大統領就任。 |
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1975年7月 |
ハビャリマナ大統領、新党「開発・国民革命運動」(Mouvement Révolutionnaire Nationalpour le Développement: MRND)の結成を発表 |
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1978年12月24日 |
ハビャリマナ大統領、99%の得票率で信任される。 |
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1979年1月8日 |
ハビャリマナ大統領就任式。内閣改造と恩赦(死刑を無期懲役に減刑)を発表。 |
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1983年12月19日 |
ハビャリマナ、99%の得票率で大統領に再選(任期5 年) |
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1987年12月 |
ウガンダでRANU が発展的に解消し、「ルワンダ愛国戦線」(Rwandan Patriotic Front: RPF)結成 |
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1988年12月19日 |
大統領選挙。ハビャリマナ三選 |
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1989年12月 |
ハビャリマナ、ブタレ県の食糧不足のため、25 万トンの緊急食糧援助を呼びかける。 |
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1990年1月 |
AFP によれば、国民の6 分の1 が飢餓状態。 |
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1990年2月 |
EC、国連食糧計画などが食糧援助 |
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1990年5月 |
ルワンダ経済に関する報道。70 年代まで好調だったルワンダ経済は80 年代に入り低迷。1987 年以来一人当たりGDP は減少を続け、成長率は87 年マイナス4.3%、88 年マイナス7.1%、89 年マイナス10%であった |
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1990年7月5日 |
大統領、在職17 年記念演説で、党と国家を分離する方向で憲法改正する意向を表明 |
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1990年10月1日 |
ルワンダ愛国戦線(RPF)、ウガンダのカギトゥンバ(Kagitumba)から侵攻する。 |
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1990年10月11日 |
この日から数日間、ギゼニィでフツによるツチ虐殺が生じる。政府は殺戮に関与したとして地方公務員を含む約400 名を逮捕 |
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1990年10月23日 |
ルワンダ政府軍、反攻によりRPF に打撃を与える。10 月末~12 月末まで政府軍の反攻続く。 |
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1990年11月13日 |
ハビャリマナ、国会で演説し、政党結成の自由、身分証明書の部族記載廃止、難民帰還の支援などを表明。改正憲法のレファレンダムを1991 年6 月15 日に実施すると述べる。 |
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1991年3月18日
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ルワンダ政府とRPF、キンシャサ近郊のンセレ(N’sele)で和平協定に調印する。 |
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1991年4月14日 |
北西部で、政府軍とPRFが衝突する。 |
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1991年6月10日 |
新憲法発効。多党制公認。大統領の権限を縮小し首相職を置く。軍士官の政治参加制限 |
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1991年11月 |
北部で政府軍とPRFが激しく戦う。ブルンジでツチ・フツ間対立激化。パリペフツの攻撃に対する報復として、5000 人のフツが殺害される。ルワンダへの難民流入も拡大。 |
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1992年3月3日 |
ラジオ・ルワンダで、ルワンダ国内に居住する20 名以上のフツ指導者を暗殺する計画をツチが立てているとの放送。何度も繰り返し報道される。 |
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1992年3月8日 |
ツチ・フツ間の殺戮、掠奪が頻発したため、ブゲセラ県に戒厳令発布 |
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1992年4月21日 |
ハビャリマナ、軍のポストから引退。しかし最高司令官およびMRNDD 総裁の地位は変わらず。 |
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1992年5月 |
国内で暴力行為頻発。ルヘンゲリやギセニィで約30 名殺害される。ザイールからの武器流入増大(中旬) ルワンダ国立大学のニャキマナ(Nyakinama)キャンパスなどでツチ、フツの学生が衝突 |
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1992年7月14日 |
RPF と政府がアルーシャで和平協定に調印 |
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1992年9月25日 |
ルワンダ政府軍とRPF による会合がアジスアベバで開催(~27 日)されるが、軍の統合と武装解除をめぐって議論は平行線を辿る。 |
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1992年10月5日
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RPF とルワンダ政府の交渉、アルーシャで再開。政府側は、大統領の権力削減などの譲歩案を提示したが、交渉はまとまらず。 |
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1993年 |
JICA(独立法人 国際協力機構)のルワンダ事務所が閉鎖される。 |
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1993年8月4日
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アルーシャ和平協定調印。主要な内容は、①「幅広い移行政府(GTBE)」の責任の下での法治国家作り、②ルワンダ人難民の帰還、③政府軍とRPF 軍からなる「移行国民軍」の形成。協定ではRPF が入閣する新内閣の首相はトゥワギラムングと合意されていたが、彼を除名したMDR は反対。またCDR はアルーシャ合意の遵守自体に反対を表明。 |
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1993年11月1日
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UNAMIR、ルワンダに展開を開始。国連事務総長、前カメルーン外相のボー・ボー(Jacques-Roger Booh-Booh)をルワンダにおける国連事務総長代理に任命。 |
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1994年4月6日
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20 時30 分頃、ハビャリマナ大統領とンタリャミラ(Cyprien Ntaryamira)ブルンジ大統領を乗せた飛行機がキガリ空港着陸寸前に撃墜される |
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1994年4月7日
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大統領撃墜死の報が広がり、キガリ市内で砲撃戦。虐殺の開始。ウィリンヂイマナ首相、農相、情報相、憲法裁判所長官、国連軍のベルギー兵士10 名などが暗殺される。フランス、ベルギー、アメリカは自国民救助のためにルワンダに軍を派遣。RPFは、大統領機撃墜は大統領警護隊の仕業だとして、全軍にキガリへの進軍を命令 |
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1994年4月12日
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キガリ市内で政府軍とRPF との間で激しい戦闘。RPF は、国連軍に対し、24 時間以内に国外に退去するよう最後通牒を発する |
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1994年4月14日 |
国連軍、撤収を開始。 |
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1994年4月18日 |
虐殺、全土に広がる。 |
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1994年4月21日 |
国連安保理決議第912 号により、UNAMIR が2500 人から300 人に縮小 |
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1994年4月22日 |
約25 万人のフツがルワンダ南東部からタンザニアに難民となって流出 |
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1994年4月23日 |
アルーシャにおける暫定政府とRPF の交渉決裂 |
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1994年5月17日 |
国連安保理決議第918 号により、UNAMIR を5500 人に増強(UNAMIR II)することが決まる。しかし、ソマリアの経験に懲りたアメリカが動かず、多国籍軍の派遣には至らず。同時に、ルワンダへの武器禁輸措置がとられる |
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1994年6月8日 |
国連安保理決議第925 号により、UNAMIR の任期を12 月9 日までとする。 |
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1994年6月22日
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国連安保理決議第929 号により、フランスなどにルワンダへの人道的介入を認める。市民の保護と食糧援助供給のために「必要なあらゆる手段」を用いることを認可 |
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1994年6月30日 |
ドゥニ・セギ(René Degni-Ségui)による国連人権委員会報告書が、ルワンダの殺戮はジェノサイドであり、責任者は国際法廷で裁かれるべきだと結論づける |
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1994年7月1日 |
国連安保理決議第935 号により、虐殺の調査に関する専門家委員会の設置が決まる |
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1994年7月18日 |
ルワンダ政府軍兵士数千名がザイール国内へと移動。RPF のカガメ司令官は、戦争の終結を宣言。フランス軍報道官は、ルワンダ暫定政府がザイールへ逃亡したことを伝える |
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1994年7月19日 |
挙国一致内閣が発足し、ビジムングが大統領に、トゥワギラムングが首相に就任する。新設された副大統領職には、カガメが就任。17 名の閣僚のうち8 名がRPF。 |
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1994年7月30日 |
ビジムング大統領、新たな身分証明書に部族名を記載しないことを確認 |
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1994年8月1日 |
国連事務総長、3 人のアフリカ人をルワンダにおけるジェノサイド調査委員に指名 |
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1994年8月2日 |
日本政府第一次調査団「ルワンダ難民支援ミッション」出発(11 日帰国) |
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1994年9月~12月 |
日本政府が、ザイール共和国(現コンゴ民主共和国)に陸上自衛隊を派遣し、医療活動、防疫活動、給水活動など様々な復興作業に従事する。 |
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1994年9月2日 |
UNHCR、日本政府に対してルワンダ難民援助を正式要請 |
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1994年9月13日 |
日本政府、国際平和協力法に基づくルワンダ難民救援国際平和協力業務実施計画及び関係政令を閣議決定 |
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1994年10月 |
ユネスコ執行委員会が、ルワンダ虐殺においてラジオが扇動的な役割を果たしたことにつき遺憾の意を示し、その調査を求める決議を行う |
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1994年10月20日 |
アムネスティ・インターナショナル、RPF 兵士も残虐行為に荷担し、多数の民間人を殺害したとする報告書を発表 |
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1994年10月24日 |
この日の夜、ブルンジ領内ギトゥワ(Gitwa)のルワンダ難民キャンプで、54 人のルワンダ難民が虐殺される |
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1994年11月1日 |
ゴマの難民キャンプからフツ民兵がギセニィ近くの村を襲撃。36 名の村人が殺害される |
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1994年11月8日 |
国連安保理、決議第955 号によりルワンダのジェノサイドを裁くための国際法廷の設置を決める。15 理事国のうち、13 ヶ国が賛成、中国は棄権、ルワンダは反対票を投じる |
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1994年11月13日 |
UNAMIR、ギコンゴロ北部のムサンゲ(Musange)キャンプで難民14 名がRPF 兵士に殺害されたと発表 |
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1994年11月30日 |
国連安保理、ザイール東部のルワンダ難民キャンプへの国連軍派遣を95 年に延期。また、UNAMIR の任期を95 年6 月9 日まで延期 |
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1994年12月1日 |
玉澤防衛庁長官、日本政府のルワンダ難民救援隊と空輸派遣隊に撤収命令 |
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1994年12月11日 |
UNAMIR、人道確保地帯で、虐殺の目撃者がフツ急進派によって殺害されていることを認める |
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1994年12月14日 |
1800 名の国連軍がルワンダ南西部の二つの難民キャンプ(Kibeho, Ngabo)を急襲し、フツ急進派の武装解除を図るが失敗。ほとんどの武装勢力は既に逃亡した後だった |
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1994年12月20日 |
日本政府のルワンダ難民救援隊、ゴマを完全撤収(23 日帰国) |
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1995年1月7日 |
ナイロビでルワンダ難民に関する会議。ケニア、ルワンダ、ブルンジ、タンザニア、ザンビア、ウガンダの元首とザイールの首相が出席。ザイール、ブルンジ、タンザニアのルワンダ難民帰還のための「安全が確保された回廊」が設置されることを要求 |
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1995年1月11日 |
ザイール国境近くで、旧ルワンダ政府軍兵士約150 名がRPF軍を襲撃したとUNAMIRが発表する。 |
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1995年1月25日 |
国連、ザイールのルワンダ難民キャンプ秩序維持のために5000 名の国連軍を送る計画を断念。その任務はザイール軍に委任される |
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1995年2月19日 |
緒方UNHCR 弁務官、ルワンダ・ブルンジ難民キャンプの視察から戻り、状況に改善が見られるため、帰還に取り組むべきだと表明 |
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1995年3月26日 |
ブジュンブラで大規模な衝突。ブルンジから大量の難民がルワンダに流入 |
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1995年4月3日 |
ブジュンブラやブルンジ北部で数千名のフツが虐殺される。アメリカ大使館が非難声明を発する |
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1995年4月7日 |
ハビャリマナ虐殺から1 周年の記念式典開催 |
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1995年4月10日 |
国連食糧計画、ルワンダ軍がシャンググでザイール領のルワンダ難民キャンプへの食糧供給を妨害したと発表 |
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1995年4月22日 |
キベホキャンプでルワンダ軍が難民に発砲。国連によれば8000 名が死亡。ルワンダ政府側は死者300 名と発表。オランダは対ルワンダ援助の凍結を発表し、カナダも凍結を示唆 |
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1995年5月24日 |
国連総会、ルワンダ国際刑事法廷、(International Criminal Tribunal for Rwanda,ICTR) の判事6 名を選出 |
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1995年5月29日 |
アメリカの人権擁護団体ヒューマン・ライツ・ウォッチが、亡命中のルワンダフツ民兵がフランス、南ア、ザイールから武器援助を受けて反攻を準備しているとの報告書を出版。3 国は直ちに関与を否定 |
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1995年6月9日 |
UNAMIR の任期延長が安保理で決定。ルワンダ政府の要求に従って、兵士の数削減を決める |
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1995年8月16日 |
国連安保理、1994 年5 月以来とられていたルワンダ向け武器禁輸措置の停止を決める |
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1995年8月28日 |
トゥワギラムング首相に対する不信任案が可決される。これを受けて首相は29 日、ビジムング大統領に辞表を提出。首相は、「安全上の問題」および「アルーシャ協定の不履行」も辞任の原因と述べている。ルワンダでは先に内相(センダションガ)と法相が辞任したばかり |
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1995年8月31日 |
内閣改造。ルウィジェマ(Pierre-Célestin Rwigema)が首相に就任 |
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1995年10月17日 |
国連安保理、各国に対して、逃亡中の1994 年のルワンダ虐殺加担者逮捕に協力するよう要請 |
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1995年11月5日 |
RPF 軍、旧政府勢力の基地となっていたキヴ湖のイワワ島を攻撃。約300 名を殺害 |
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1995年12月6日 |
ルワンダ政府、UNAMIR 任期延長を正式に承認。しかし、人員削減と任務の見直しを要求 |
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1996年1月16日 |
ルワンダ政府、ニャルワンダ語およびフランス語とともに英語を公用語とすることを発表 |
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1996年1月21日 |
ブルンジで難民キャンプに政府軍が攻撃を加える。これに伴い、ルワンダ、ブルンジ難民約1 万7000 名が新たにタンザニアに流入 ザイール・ルワンダ国境付近、特にゴマ周辺で緊張が高まっていると報じられる。 |
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1996年2月28日 |
フランス、虐殺に関与したルワンダ人を国内で拘束した場合、「人道に反する罪」で裁判にかけることを発表 |
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1996年3月8日 |
UNAMIR の活動任期満了 |
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1996年3月20日 |
カガメ副大統領、『ニューズウィーク』誌のインタビューに答え、国連平和維持軍の撤退を歓迎すると述べるとともに、国連軍はルワンダの安定再興のために何の役にも立たなかったと非難 |
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1996年4月19日 |
UNAMIR 最後の代表、ルワンダを離れる。 |
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1996年5月8日 |
ベルギーで、UNAMIR のキガリ担当司令官に対して、国連兵の「過失致死」容疑で裁判が始まる |
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1996年5月12日 |
コンゴ民主共和国、北キヴ州のマシシで約100名のツチが虐殺される |
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1996年6月21日 |
ジュネーヴでUNDP が組織してルワンダ復興のための円卓会議が開催される。ルワンダはルウィジェマ首相を送り、30 ヶ国が参加。ルワンダ側は復興のために8 億ドルの予算を要求したが、国際社会は6 億1700 万ドルの支援を約束 |
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1996年8月9日 |
ルワンダ議会、1994 年の虐殺犯を裁くための法律を採択。裁判の対象となる期間を1990 年10 月1 日~1994 年12 月31 日とする |
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1996年9月14日 |
国連安保理、ルワンダ政府に対する武器禁輸措置を完全に解除。ただし、非政府組織については引き続き禁輸措置を継続 |
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1996年9月23日 |
ブカヴ近郊のルワンダ・ザイール国境を挟んで激しい砲撃。旧ルワンダ政府軍勢力によるシャンググの監獄襲撃への報復として、ルワンダ軍がブカヴに砲撃を加え、ザイール軍が応戦した模様 |
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1996年10月13日 |
バニャムレンゲ勢力、ウヴィラ北西25km のルニンゴ(Runingo)キャンプを襲撃。キャンプの2 万2000 人の難民はゴマ方面に逃亡。この日から10 日間ほどでウヴィラ近郊の12 のキャンプは空になり、25 万人がブカヴ方面に移動 |
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1996年10月22日 |
ザイール政府、ザイール東部の戦闘でザイール軍とルワンダ軍が直接交戦していると述べる。ルワンダ、ブルンジ政府軍が南キヴ州を攻撃しているとして両国政府を非難。ルワンダ、ブルンジ両政府は戦闘への関与を否定 |
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1996年10月25日 |
ザイール政府、南北キヴ州に非常事態宣言を発する。キンシャサではルワンダへの戦争の雰囲気が盛り上がり、ツチに対する迫害が強まる |
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1996年11月1日 |
キンシャサで反ツチ感情の高まり。ケンゴ首相が、キヴの事態に対する責任に加え、「ツチ系」(母親に半分ツチの血が混じっているとのこと)であるとしてデモで辞任を要求される。また、ルワンダ大使館が投石を受ける。ツチの多くがキンシャサから対岸のブラザヴィルに避難 |
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1996年11月6日 |
反乱軍側、ブカヴとゴマをほぼ制圧。人道援助組織が「難民救出」活動に従事できるように、一方的に停戦を宣言 |
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1996年11月15日 |
国連安保理、ザイールへの多国籍軍(カナダのバリル(Maurice Baril)将軍を隊長とする)派遣を認める決議第1080 号を採択。ルワンダの国連大使は、難民帰還が始まっており、武力介入は不必要だと演説 |
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1996年12月6日 |
ゴマ近郊で虐殺された約80 名のフツ難民の遺体が発見される。ADFL 勢力が虐殺実行者ではないかとの疑い |
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1996年12月19日 |
UNHCR、タンザニアのルワンダ難民53 万人のうちこの1 週間で約半分がルワンダに帰還したと推計 |
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1996年12月27日 |
ルワンダで、1994 年虐殺犯の公判が開始される |
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1997年 |
ルワンダ政府は「ルワンダ動員解除・除隊兵士社会復帰委員会(Rwanda Demobilisation and Reintegration Commission、以下RDRC)」を設置し、世銀等の支援を受け、1997年にルワンダ動員解除・除隊兵士社会復帰プログラム(Rwanda Demobilization and Reintegration Program、以下RDRP)を開始 |
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1997年1月10日 |
UNHCR、難民キャンプからザイール西部に向かって逃げた10 万人以上の難民の帰趨について懸念を表明(M97.1.9、97.1.14 など)。国際的にもザイール領内のルワンダ難民への懸念高まる |
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1997年1月18日 |
フツ急進派がルヘンゲリを攻撃。NGO(Medecins du monde)に所属する3 名のスペイン人が殺害される |
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1997年1月24日 |
1 月18 日のフツ急進派の攻撃への報復として、ルワンダ愛国軍が掃討作戦を行い、93 名を殺害したとルヘンゲリ州知事が認める |
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1997年2月4日 |
シャンググ州で、4 名の国連人権監視員が殺害される |
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1997年2月9日 |
キガリ近郊でバスが襲撃され、乗客のうちツチのみ11 名が殺害される |
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1997年2月18日 |
国連安保理、サーヌーン特使による5 項目の和平提案を決議(第1097 号)。内容は、即時停戦、傭兵を含む外国勢力の撤退、ザイールおよび大湖地域諸国の主権と国家統一の再確認、難民保護、対話・選挙・地域会議による早期の平和的解決 |
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1997年2月21日 |
国連安保理、アムネスティ・インターナショナル、ベルギー政府に提出された報告書において、ザイール東部で大量のフツ難民が虐殺され、それにADFL が組織的に関与した事実が指摘される |
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1997年3月1日 |
ルワンダ国内の虐殺裁判で、初めて女性が死刑を宣告される |
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1997年4月1日 |
世界食糧計画、キサンガニ近郊で数百のルワンダ難民の虐殺された遺体を発見したとジュネーヴで報告 |
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1997年4月2日 |
モブツ、野党領袖のチセケディを首相に指名 |
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1997年5月17日 |
ADFL キンシャサ入り。カビラ、ザイールという国名をコンゴ民主共和国と改め、その元首となることを発表 |
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1997年6月20日 |
ルワンダ西部で、UNHCR に勤務するルワンダ人が殺害される。国連機関のルワンダ人職員の殺害が相次ぐ |
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1997年6月24日 |
ルワンダ政府、南西部で中国人エンジニア1 名とルワンダ人3 名が旧ルワンダ軍兵士に殺害されたと発表 |
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1997年7月18日 |
アムネスティ・インターナショナル、ルワンダ軍により5 月以降2300 名の民間人が殺害されたとして、ルワンダ軍の「恣意的な殺戮」を非難。国連は被害者について、旧ルワンダ軍兵士や民兵が中心だが、少なからぬ数の民間人が含まれているとの見解 |
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1997年8月21日 |
ギセニィに近いムデンデ難民キャンプが襲撃され、148 名のコンゴ人難民が虐殺される。コンゴ人難民の大部分はツチで、犯人はフツ民兵の疑いが強い |
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1997年9月7日 |
モブツ、亡命先のモロッコで客死 |
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1997年9月12日 |
キガリの軍事法廷で、1995 年に約100 名の民間人を虐殺した現ルワンダ軍兵士の裁判が行われる。判決は懲役28 ヶ月 |
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1997年9月22日 |
ルワンダ、軍事費削減のため、3 年間で5 万7500 名の兵士を除隊させる計画を発表。1 万7500 名は旧ルワンダ愛国軍の兵士、4 万名は旧ルワンダ政府軍の兵士を除隊させる予定 |
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1997年12月20日 |
ムデンデ難民キャンプがフツ反政府勢力に攻撃され、コンゴのツチ難民200 名以上が殺害される。8 月に続き2 度目の襲撃。 |
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1998年1月4日 |
ロビンソン(Mary Robinson)国連人権高等弁務官、ルワンダで国民融和が進まないことについて批判し、度重なるフツ急進派の犯罪とルワンダ軍による暴力の増大をともに非難 |
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2000年 |
ピエール・セレスティン・ルイジェマ(Pierre-Célestin Rwigema)首相が、94年の虐殺関与の疑いで更迭される。 |
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2000年3月 |
ビジムング大統領辞任 |
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2000年4月 |
カガメ副大統領が大統領に就任 |
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2002年4月 |
国民議会選挙が開催される。 |
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2002年6月 |
ルワンダ政府が、虐殺容疑者を裁くことを目的とした「ガチャチャ裁判」を設置する。 |
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2003年6月 |
新憲法発令 |
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2003年6月 |
ルワンダ連合和解委員会(National Unity and Reconciliation Commission, NURC)が発足する。 |
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2003年8月 |
複数候補者による初の大統領選挙でカガメ大統領当選 |
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2003年9~10月 |
上院・下院議員選挙(与党RPFの勝利) |
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2005年 |
JICAがキガリに「ルワンダ駐在員事務所(現在ルワンダ支所)」を再開する。 |
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2005年 |
ホテル・ルワンダ(Hotel Rwanda)が2005年度アカデミー賞で、主演男優賞など3部門にノミネートされる。その後日本でも上映運動が開始される。 |
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2005年3月10日 |
ガチャチャ裁判で、初めての虐殺に関連した裁判が行われる。 |
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2008年 |
Genocide Ideology Lawが議会を通過する。 |
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2008年9月 |
下院議員選挙(与党RPFの勝利) |
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2009年8月 |
長年の議論の末、ルワンダでメディア法が制定される。 |
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2009年11月26日 |
ルワンダ政府が、フランスとの国交を回復する決定を発表する。 |
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2009年11月28日 |
トリニダード・トバゴで開かれた英連邦首脳会議で、ルワンダが51カ国目の国として英連邦に加盟することが正式に満場一致で承認される。 |
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2010年1月 |
在ルワンダ日本国大使館が開設。初代大使に畑中邦夫氏が就任。 |
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2001年2月20日 |
キガリで爆弾テロが発生し、少なくとも1人が死亡、18人が重軽傷を負う、大惨事となった。 |
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2010年4月21日 |
大統領立候補者であり、カガメ大統領の対抗馬でもあったVictoire Ingabireが、コンゴのテロリストグループに資金提供していたとし、ルワンダ政府が彼女を逮捕する。更に政府は、彼女の所属する政党、The Unified Democratic Forces (FDU-Inkingi),が選挙に参加することも禁止する。 |
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2010年5月28日 |
アメリカの弁護士、Peter Erlinder氏がルワンダ政府によって3週間ほど拘束される。 |
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2010年7月 |
アメリカの雑誌、Foreign Policyにおいて、ルワンダ大統領のカガメが、世界最悪の独裁者の一人に選ばれる。 |
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2011年7月13日 |
国際ジャーナリスト連合(International Federation of Journalists) がメディア法の改正を政府に要求する。 |