ARC「ルワンダ子ども支援基金」は、2002年から、ルワンダの初等教育のための奨学支援を行っています。
ルワンダでは1994年のジェノサイドにより、多くの子どもが戦災孤児となりました。またエイズによって親を失ったエイズ孤児も多くいました。エイズ感染の背景も、ジェノサイド時のレイプによる感染や、ジェノサイドで家族を失ったために貧困におちいり、売春行為を行ったことによる感染など、ジェノサイドが原因となっています。
孤児の中には、児童養護施設や一般家庭に引き取られたりした子もいました。しかしそのすべてが学校に行ける子どもばかりではありませんでした。また、家族がいても、貧困などの問題で学校教育を受けられない子どももいます。家計を支えるために路上でみやげ物や卵を売る子どももいました。しかし行き場のない子どもの中には、ストリートチルドレンとなって街をさまよう子どももたくさんいました。
2002年、ルワンダに駐在していたARC現地代表の高美穂は、私財を投じて孤児を支援する「孤児の友だち」を運営するママ・マリアンと出会います。
1994年にジェノサイドが始まり、彼女自身も2人の子どもを失いました。また彼女の兄弟姉妹やその子どもたちの多くも亡くしました。
ジェノサイドが続いていた6月のことです。彼女はジェノサイドによって殺された母親の側で眠っている女の赤ちゃんを見つけました。彼女は赤ちゃんを拾い上げ、一緒に生きていこうと決心し、そして他にももっとこのような赤ちゃんがいるかも知れないと思い、死体の山の中から生きている赤ちゃんや子どもを探し始めたそうです。
いつか彼女のもとには200人もの孤児たちが集まり、近所の人々の支援などで子どもたちに衣食住を提供していました。
当時のルワンダにはこのような孤児がたくさんいました。NGOが運営する児童養護施設も数多くありました。しかし多くの施設が子どもたちの衣食住を提供することだけで精一杯で、子どもの教育のことまで手が回りませんでした。そこでARCがはじめたのが「ルワンダ子ども支援基金」プロジェクトです。
これは「一口8000円のご寄付で一人の孤児が一年間学校に通える」ということではじまりました。ご寄付は学費、学用品、通学カバン、制服の仕立て代のために使わせてもらうこととしました。
基金の呼びかけ開始から約半年後の2003年3月の時点で、26人の方から53口のご寄付をいただきました。現地代表が「孤児の友だち」に行き、奨学基金が集まっていることを伝えると、ママ・マリアンは涙をこぼし始めました。じつはこの時期、2学期目に入っていたのですが、彼女は今学期の学費をまだ払えず、子どもたちは先生にいつ学費が払えるか聞かれて、マリアンは心をいためていたのです。
しかしご寄付をくださった方々のおかげで、子どもたちに学費や学用品などを支援することができました。
こののちも「ルワンダ子ども支援基金」は、いくつかの児童養護施設を通じて、およそ20年にわたり、この活動に取り組んでいます。支援を受けた子どもの数は、200人を越えました。
うれしかったのは「ルワンダ子ども支援基金」を通じて奨学支援を受けた孤児が、卒業後に自立して、自分が育った施設の子どもを養子として引き取り一緒に暮らすようになったという話しを聞いた時です。アフリカの人たちは助け合いの精神があるといいますが、ジェノサイドという悲劇を経験したルワンダの人たちもまた、世代を超えて助け合っている姿を見ました。
このようにルワンダ政府は、孤児たちを養育してくれる家庭に引き取ってもらうことを推奨してきました。またジェノサイド孤児たちも成長していったことで、ジェノサイド孤児のための児童養護施設は減っていきました。
ジェノサイドから10年ほどが過ぎた頃から、ルワンダはのちに「アフリカの奇跡」といわれるほどの経済成長がつづいています。都市部には高層ビルが立ち並び、大型のショッピングモールもできました。
一方で農村部の状況は大きくは変化せず、都市部と農村部の経済格差は広がっています。また首都キガリの中ですら、発展している中心部と、開発から取り残されている周縁部との格差は大きいものです。そのような周縁部の低所得層の世帯では、子どもたちを通学させることもままならない家庭もあります。
このことから、ARCは「ルワンダ子ども支援基金」で、低所得層の世帯の子どもたちの奨学支援を継続しています。
もちろん教育ですべてが解決するわけではありません。しかし、ジェノサイド後の復興と発展に教育が果たす役割は大きいと思います。また識字だけでなく、平和や国民和解のための教育の必要性も指摘されていて、その中心はやはり学校です。なによりも就学可能な時期を逸してしまえば、教育を受けられなかった世代が増加してしまいます。かつてのジェノサイドで民兵となって暴力を扇動した人たちの多くは、そういった学校にも行けず、不安定な仕事しかできなかった人たちといわれています。そういう意味では、教育も「緊急」に必要で、人々が暴力に誘引されないようにするために必要なことと考えています。