1916年 |
イギリスはダルフール王国をイギリス統治下のスーダンに併合。その後数十年間、国家の工業的な綿花栽培計画から、発展の遅れていたダルフール地域は取り残される。 |
1956年 |
スーダン成立。 |
2003年2月 |
ダルフールの反政府勢力が北ダルフール州都の政府軍全焼部隊を急襲し、100人の兵士を殺害。スーダン政府はジャンジャウィード軍を支援し、村落への焦土攻撃を行わせる。 |
2003年4月 |
人道的停戦協定が政府と反政府勢力の間で締結される。 |
2004年4月 |
人道的停戦協定が政府と反政府勢力の間で締結される。 |
2004年5~6月
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アメリカと国連からの圧力を受け、スーダン政府は人道支援関係者のダルフールへのアクセスを緩和。雨季の到来により、援助物資の配布が更に困難になる。 |
2004年7月 |
国連とスーダン政府は紛争停止の誓約書に署名をする。避難民に関する国連の調査により、避難キャンプの住民が略奪や恐喝、レイプに苦しんでいることが分かる。 |
2004年7月30日 |
(国連安保理決議1556)スーダン政府に対し、アラブ系民兵の武装解除、人権侵害行為の責任者処罰を要請。また、非政府主体に対する武器禁輸措置の発動を決定。 |
2004年9月 |
国連本部から安全保障理事会に対して、ダルフールの人道的状況は未だ楽観視できるものではないことが伝えられた。 |
2004年11月19日 |
(国連安保理決議 1574)3320名に拡大されたアフリカ連合の停戦監視団につき、国連加盟国に対し、必要とされている支援を強く要請するとともに、スーダン政府及びダルフールの全反政府勢力に対し、AUと完全に協力することを要求。 |
2005年3月29日 |
(国連安保理決議 1591)武器禁輸措置の適用範囲をスーダン政府に拡大。安保理メンバー国から構成される「措置委員会」を設置し、決議採択より30日以内に紛争の当事者が安保理決議の求めるコミットメントを遵守していると認定した場合を除き、同委員会により指定された個人に対する渡航禁止措置及び資産凍結措置の発動を決定。 |
2005年3月31日 |
(国連安保理決議 1593)ダルフールにおける国際人道法・国際人権法の重大な違反の事案を、国際刑事裁判所(ICC)に付託することを決定。 |
2005年12月 |
政府と反政府勢力はナイジェリアのアブジャで7回目の平和交渉に臨む。 |
2005年12月21日 |
(国連安保理決議 1651)決議1591に基づき設置されたスーダン措置委員会の専門家パネルの任期を2006年3月29日まで延長することを決定。 |
2006年3月24日 |
(国連安保理決議 1663)国際連合スーダンミッション(UNMIS)への活動委任期限を、2006年9月24日まで延長し、民兵組織及びLRAなどの武装集団の活動を強く非難し、UNMISに対し現在の委任活動内容と能力を全面的に発揮するよう要請。 |
2006年3月29日 |
(国連安保理決議 1665)専門家パネルへの活動委任期限を2006年9月29日まで延長することを決定。 |
2006年4月25日 |
(国連安保理決議 1672) Major General Gaffar Mohamed Elhassan (スーダン空軍西部方面司令官) Sheikh Musa Hilal (北ダルフール地域ジャルール族族長) Adam Yacub Shant (スーダン解放軍司令官) Gabril Abdul Kareem Badri (改革・開発国民運動指揮官) に関し、全ての加盟国が決議第1591号において指定された方策を履行することを決定。 |
2006年5月5日
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反政府勢力のうち最大勢力の一派が、政府と和平協定に調印。しかし残る二派は和平案を拒否。 |
2006年5月16日 |
(国連安保理決議 1679)アフリカ連合(AU)スーダン・ミッション(AMIS)の国連オペレーションへの移行準備を促進することを決定。 |
2006年6月
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スーダン西部のダルフール紛争で、和平協定未調印の武装勢力2派は、調印の最終期限である5月31日までに調印しなかった。和平を仲介してきたアフリカ連合(AU)内では2派関係者への制裁が必要との意見が強まってきており、近日中に平和安全保障委員会を開き、国連安保理に制裁決議を求めることも視野に対応を協議する。 |
2006年8月31日 |
(国連安保理決議 1706)スーダン南部に展開中のUNMISのダルフールへの拡大、及びダルフールで展開中の AMISへの支援強化、併せて、右展開に対するスーダン政府の同意を慫慂することを決定。(バシール大統領がダルフールにおける国連オペレーションの受入を拒否すると発言し、決議後もその立場に変更はなく、UNMISの部隊がダルフールに展開することはなかった。) |
2007年4月 |
スーダン政府が国連平和維持部隊展開に向けた第二段階であるAMIS部隊強化のための「重量支援パッケージ」の受入を表明。 |
2007年6月 |
スーダン政府は第3段階である「AUと国連による共同展開(ハイブリッド・オペレーション)の無条件での受入に合意 |
2007年7月31日 |
(国連安保理決議 1769)2004年以来、ダルフールに展開中のAMIS部隊(要員約7千人)を補強するため、約2万6千名規模のPKOミッションとなる「ダルフール国連・AUミッション(UNAMID)」展開を決定。 |
2007年10月 |
タンザニアのアルーシャで,DPA署名以来のスーダン政府と反政府勢力との交渉が行われたが,主要反政府勢力であるJEMやSLM/Aアブドル・ワーヒド・ヌール派が参加せず,停戦合意も実現しなかった。 |
2007年10月31日 |
(国連安保理決議 1784)ダルフールにおける危機の解決および地域における持続的な平和と安定には、包括的和平合意(CPA)の履行の成功が[不可欠で]あることを認識し、全ての側によって行われる暴力行為を非難し、スーダンアフリカ連合ミッションのための国際連合軽量および重量支援パッケージの早期展開、UNAMIDの完全な展開、および人道援助従事者の保護を要請。 |
2008年5月 |
反政府勢力のうち,SLM/Aが分裂を繰り返す一方,JEMは,民族的に近く,スーダンと関係が悪化したチャドの支援も得て,着実に勢力を強化し,首都ハルツーム近郊のオムドルマンまで侵攻。政府軍に撃退されたものの,双方に100名以上の死者が発生。他の反政府勢力の移籍も相次ぎ,JEMはダルフールで最大の軍事力を有する反政府勢力となった。 |
2008年6月 |
サリム国連特使及びエリアソン特使が退任し,バソレ国連・AU合同調停官が就任。アル・マフムード・カタール外務担当国務大臣とともに,カタールの首都ドーハで調停活動を開始。 |
2008年7月 |
オカンポ首席検察官は,バシール大統領に対し,ジェノサイド,戦争犯罪,人道に対する罪の容疑で,ICC予審裁判部に対して逮捕状を請求。 |
2009年2月 |
バソレ調停官は,アラブ連盟の支持を受けたアル・マフムード・カタール外務担当国務大臣とともに調停活動を開始。ドーハにてスーダン政府とJEMとの間で,捕虜の交換や停戦を含む枠組み合意を目指すこと等を定めた「善意と信頼醸成合意」(the "Agreement of Good Will and Confidence Building for the settlement of the problem in Darfur)に署名。 |
2009年4月30日 |
(国連安保理決議 1870)スーダンの事態が国際の平和および安全を脅かしているとし、UNMIS に大規模な任務の拡大を要請する。具体的には、必要に応じての治安対策とUNDPとの緊密な協力を通しての国連の選挙支援活動の調整、地域紛争の危険性が高い地域のパトロール、アドホック境界技術委員会に技術的および後方支援を提供、軍隊および武装集団に参加した子どもたちの保護、解放および再統合、国家DDR調整審議会および北部ならびに南部DDR委員会への支援の拡大などが決定された。 |
2009年3月4日 |
ICCがバシール大統領に対し逮捕状発布を決定。スーダン政府はICCの決定に強く反発し,ICCに協力した容疑で国際NGO13団体を追放。 |
2009年7月30日 |
(国連安保理決議 1881)ダルフールにおける人道的な状況の悪化に関して、スーダン政府、民兵、武装集団などに対し、人道援助団体および援助要員並びに必要としている人々に対する人道援助活動の提供の十分、安全かつ妨害を受けないアクセスの確保を要求。 |
2009年10月13日 |
(国連安保理決議 1891)専門家パネルに対し、適切にその活動を、ダルフールにおける国際連合・アフリカ連合混合部隊(UNAMID)の活動およびダルフールにおける政治プロセスを促進するための国際的な取組と調整し、また、その暫定報告書ならびに最終報告書において、決議1556(2004)の第7および8項、並びに決議1591(2005)の第7項により課された措置に対する全ての当事者による違反の削減へ向けての進展、政治プロセスへの妨害とダルフールおよび当該地域における安定への脅威、並びに上記の諸決議に対するその他の違反の削減へ向けての進展を評価するよう要請する。 |
2010年2月 |
スーダン政府とJEMとの間で,即時停戦等を定めた「ダルフール紛争解決のための枠組み合意」に署名。しかしながら,同年4月のスーダン総選挙後にJEMとスーダン政府との間で激しい武力衝突が生じたため,JEMは和平交渉から離脱。 |
2010年3月 |
JEM,SLM/Aアブドル・ワーヒド・ヌール派以外の主要反政府勢力が合流した「解放と正義の運動(LJM)」との間でも類似の合意に署名するものの,LJMの和平交渉参加にJEMが反発。 |
2010年4月 |
スーダン総選挙後に,JEMとスーダン政府との間で激しい武力衝突が発生したため,JEMは和平交渉から離脱 |
2010年4月29日 |
(国連安保理決議 1919)UNMISに対して、国民投票委員会及び住民投票委員会の創設と任命、ハーグのアビエイ問題に関する常設仲裁裁判所(the Permanent Court of Arbitration)の決定の履行、北部・南部の国境画定、南コルドファン州及びブルーナイル州(Southern Kordofan and Blue Nile states)における富の共有・治安対策・紛争解決を含む、CPAのあらゆる条項の履行において、要請された際には、参加者を継続して支援することを要請する。 |
2010年7月30日 |
(国連安保理決議 1935)UNAMIDに対し、国際連合スーダンミッション(UNMIS)・国際連合中央アフリカ共和国ミッション(MINURCAT)を含む当該地域の他の国際連合ミッションと緊密に調整することを要請。 |
2010年10月14日 |
(国連安保理決議 1945) ダルフールの平和と安定の回復への政治的プロセス推進の重要性を繰り返し強調し、交渉に参加することに合意していない勢力に対し即時に参加すること並びに紛争当事者に対しプロセスに全面的かつ積極的に関与すること及びアフリカ連合=国際連合合同主任調整官のジブリル・バソレ(Djibril Bassole)氏に協力することを要請。 |
2011年1月11日 |
南部スーダンで、独立を問う住民投票が実施された。 |
2011年1月17日 |
住民投票の中間発表が行われ、95%以上の市民が独立を支持していることがわかる。 |
2011年1月22日 |
住民投票の最終投票結果が発表され、99%に近い市民が、北部スーダンからの独立を求めていることがわかる。 |
2011年1月24日 |
南部スーダンの北部からの独立が住民投票で決まり、その国名が、南スーダン共和国に決定する。 |
2011年1月31日 |
スーダンの大学生、また卒業生らが、Facebook、Twitter等のSocial Networkを通じて首都ハルツームでデモを行い、スーダン軍と学生らが激しく衝突した。 |
2011年2月6日 |
少なくとも50人の市民が、石油産出州であるナイル州北部に展開していたスーダン軍の暴動によって死亡する。 |
2011年2月7日 |
バシール大統領が、最終投票の結果を受けて、スーダン政府は今夏新たな国誕生の準備をするために、長期間問題を抱えていたスーダン南部の北からの離脱を受け入れると発表する。 |
2011年2月11日 |
スーダン南部のジョンレイ州で、南部スーダン軍と反乱軍の衝突で105人が死亡し。締結されていた休戦協定を破る結果となる。 |
2011年2月26日 ~3月2日 |
北部、南部共に主権を主張している境界上に位置するAbyei地区で、警察と遊牧民、市民軍が衝突し、100人以上が死亡する。 |
2011年4月6日 |
スーダン政府はイスラエルを、紅海に面しているスーダン港から移動中の車に爆撃をしたとして、激しく非難した。またこの爆撃で、車に乗っていた二人も死亡した。 |
2011年4月27日 |
スーダン政府は、もし南部スーダンが領土問題で議論の最中であるAbyei地区を併合するようであれば、南部スーダンの独立は認めないと発表した。 これにより、南部スーダン独立を10週間後に控え、両者間の溝は更に深まる結果になる。 |
2011年5月22日
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スーダン軍が、危険地域であるAbyei地区を侵略する。西側諸国、また国連大使は、この侵略は、南部スーダンとの全面的な戦争の可能性を高める、挑発的な行動であると警戒を呼びかける。 |
2005年までは、UNICEF ホームページを参照。
http://www.unicef.or.jp/kinkyu/sudan/060222ph3.htm
2006年から2010年までは、外務省ホームページを参照。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/sudan/kankei.html
2011年の出来事は、The New York Timesを参照。